初めの3巻のシリーズはそれまでのお菓子作りのための本の作り方を一変させました。それまでは大きいお菓子1台2台の量、つまりアマチュアのための本はどうせどんなに頑張ってもプロの味ってのは無理なのだから適当に写真をつけて本を作ればいいのだというのが巷の考え方でした。
そんなところにプロが作るお菓子だってまずいものがほとんどだ。少量のための正しい技術があれば簡単にプロ以上の味わいが作れると、それまでにない全く新しい考え方で切り込んできたのですから、表面は無視しても多くのパティスィエ、キュイズィニエ、お菓子研究家がこぞって本を買って見ていたようですよ。高価な本ですが、これまでに1巻は11,000冊、2巻9000冊、3巻8000冊と、驚くほどの売れ行きでした。
慣れるまでは本当に疲れました。読者の視点と同じ角度に写真を撮るために中腰になってお菓子を作り、それをカメラマンが脚立にのり肩越しから撮るというものでした。そして様々のポイント1つ1つの工程を出来るだけ写真を多くしました。そして事細かく解説しました。当時、まだ未熟ではあったけれど、頭の中にあるものを全て出すつもりで原稿も全部自分で書きあげ構成も最後までしました。これも大きなエネルギーを注ぎ込んだシリーズでした。
本ではちゃんとしたおいしい味わいはまずできないというのが普通でしたから、ちゃんと本の初めの方から隅々まで注意を凝らして読めば、私が作るものと全く同じ味わいとはいかなくても、多くの人がちゃんとおいしいお菓子が出来るのですから大きな驚きと衝撃を与えました。
ただ単に配合と写真でお菓子を機械的に作るのではなく、それを生み出す作り手の素材やお菓子に対するイマジネーション(想像力)が最も大事なんだと言うことを分かってもらおうと思い、それぞれの初めのお菓子の写真に自分なりの想いを文に表しました。例えば私の大好きなオリジナルの「ゴッホの様なバナナ」に沿えた文です。
私はゴッホの絵が大好きです。味わいと重なるのでこの名をつけました。かつてゴッホが自殺しようとしたオーヴェル・シュル・オワーズの彼の絵「星月夜」に描かれた教会を訪れた時の印象です。
どうやら……
5月の麦畑の目にしみ入る揺れざわめく穂の黄色と
いつも流れ去る空の蒼さと、
春の陽の中に土の重さに心を休めまどろむ木立の緑と存在の素粒子を
喰いつくす熱くたぎる血の赤とが
神の意志を持った、初夏のまぶしさと
気高さに満ちた水色の風に送られて一つになり
まるでこの世にひとつだけ作られた、神の悪意の落とし穴、
ふつふつと熱を持った黄色はここで生まれてくるように思えるのです。
在ることの全てを喰いつくしたあの目に
神は最後に自分の血を飲めと言い放ったように思えるのです。
在ることの悲しげなつぶやきが麦の穂からも立ち昇るように思えたのです。
オベール・シュル・オワーズの教会は
百年余後の今もゴッホの絵の中の苛立ちに満ちた
黄色の世界への口をあけているように思えるのです。
彼の絵の黄色は感情をお菓子の味わいで表現しようと言う訓練をしていた頃のお菓子でした。
特に後半4~6巻はカメラマンの五海さんと真剣勝負の撮影でした。次の撮影の前に、次に撮るお菓子を食べてもらい私のイメージを述べ、そして撮影に入りました。私は少しでもイメージに合わなければ決してOKとは言わず、お菓子のこの部分をもっと明るく、光り輝くように、などと要求をして、一つのお菓子を撮り終えるまでに三時間ということもありました。
1枚の写真にもありったけのイメージを注ぎ込もうと、私もありったけの体力と精神を注ぎました。今はもうあんなエネルギーの要ることはできません。