1947年福島県会津若松市生まれ。
現在、アマチュア向けお菓子教室、プロ向け講習会を開催する傍ら、全国にて技術指導を行う。そして日本の食材や料理からあまりにも栄養素がなくなっていることに危機感を抱き、「食の仁王」として、日本人の心と身体を健康にする「ごはんとおかずのルネサンスプロジェクト」を開始。
今日、私は自身の食道癌発症について公表します。 ただこれまで、手術後の病状を記録するだけの心と身体のエネルギーがなく、何も書いていませんでした。思い出しながら書きました。それぞれの内容の前後関係などは確信が持てませんが、内容はほぼあるがままです。このことを考慮してお読みください。
私は毎年1回人間ドックを受け、大腸カメラ、胃カメラをしていました。胃カメラではここ数年は胃に少し炎症があり、食道はきれいという診断結果でした。
何かあるとしたら胃の方が危ないのかなと思っていました。しかし一昨年の秋の胃カメラで後述のように食道に小さな癌が見つかりました。
もちろんその時のショックは言葉では言い表せないものでした。
以前はアルコール中毒患者のようにアルコール漬けの時もありました。しかし、「ルネサンスごはん」で体調を取り戻していきました。ただ、やっぱりかというものはありました。この2年間は週に5~6日は1日約半分のワインを飲んでいました。
去年、特許が取得できた「奇跡のワイン」の日本に着いてからの味わいの変化を追跡するために試飲を続けました。物を食べながらでは香り、味わいの微妙な変化が分からないので、栓を抜いてから30分は何も食べないでワインを飲み続けました。何も食べないとやはりアルコールの吸収、ダメージはやはり強かったと思います。
癌発症には様々な要因が絡むといわれますが、食べ物を摂らないでの飲み方は大きな要因になったような気がします。
でもこの2年半の試飲の経験はどんな高名なソムリエも理解していない日本に存在するワインに関しての真実の姿を知ることが出来ました。
まぁ、それにしてもちゃんと何かを食べながらにすればよかったなぁという大きな後悔は勿論あります。
いずれにしても現に発症してしまいました。
2013年12月に食道癌の手術を受けました。さらに二度の肺炎を併発し、4ヵ月近くの入院の間ほとんど透明な点滴だけでベッドに寝続け体重は10㎏以上減り、正にかろうじて命を繋いでいる状態となりました。
少なくない人がもう弓田は駄目だろうと思ったようです。
入院中に見舞いに来た友人に少し元気になって電話をしたら「もう会えないだろうと思っていた」と言われました。
そして度々病室に来ていた社の若者は「何とか命だけでも助かってほしい」と思ったそうです。
そしてこの彼は今、自分も私と同じような状況に陥ったら、私と同じように這い上がって来れるだろうかと考えてしまうと言います。
確かに私も寝たきりにもならずよくここまで回復して来れたなとしみじみ思います。
今すぐ、いっそのことこの苦しみから抜け出して楽になりたいと思ったことも何度かありました。
私がここまで戻って来れたのは三つの大きな力によってだと思います。
一つは、誰もがその人を心から必要としているということを当人に伝え続けることが何よりもの力になります。そうだ頑張らなきゃいけないんだ、元気にならなきゃいけないんだ、という気持ちを起こさせます。
二つめは、時には心を鬼にしなければなりません。患者にとって何もしないで寝ていたり、座ったままでいるのは、確かに一番楽なのです。でも何もしたくなくなる甘えがどんどん強くなります。
そしてこれを続けていれば筋肉は少しも作られず確実に回復は遅れ、寝たきりにもなります。初めは小さなことから、嫌がっても身体を使わせなければいけません。辛くてもイヤイヤでも続けていればもうちょっと先へ進もうという気になります。人間の頭と身体はそんなものだと思います。
三つめは食べ物です。すっかり無くなったり少なくなってしまった筋肉や血管や神経や血液を再び作り上げるには、生物の生命に直結する基本的な栄養素を豊かに幅広く送り届けるしかないのです。
食べ物に含まれている豊かな幅の広い栄養素のみが身体を正しく再構築してくれるのです。しかし日本の食材と料理法からはこの命を築き上げるための必須の栄養素は大きく欠落してしまいました。
そのような状態でも身体に必須の栄養素を補給できるのはこの日本には「ルネサンスごはん」しかありません。そして「ルネサンスごはん」を土台として作られた「いりこサプリメント」しかありません。私にはこれがあったからこれまでの回復が可能になったと確信しています。私だけでなく癌の手術治療で体力が著しく衰えている方はきっと大勢おられるでしょう。でも必ずこの二つは大きな改善を与えてくれると思います。
これは「ごはんとおかずのルネサンス」を手がけ始めてから様々の事例と自分自身の闘病を通しての20年の確信です。
ここに私の2年前の退院後の闘病とリハビリの様子、そして現在の状態をお知らせします。
2013年9月。年1回受けている人間ドックでの胃カメラで食道に直径1.5cmほどの癌が見つかりました。未だ初期のものであり、内視鏡による切除で大丈夫かもしれないということで、内視鏡手術を受けました。
しかし顕微鏡による組織検査で深達度2、つまり既にかなり深く浸潤していました。このままでは転移の可能性が高くなり、手術による切除か放射線・抗癌剤の選択か示され、またその中で食道癌の手術は最も難しい手術であり、合併症もとても多いと聞きましたが、手術を受けることに決意しました。
一口で言えば食道を声帯の下から胃まで切除して、胃を引っ張って伸ばし、上に残っている食道と縫合すると説明を受けました。私もその時まで知らなかったのですが、食道は喉から身体の後ろを通って下まで行き、胃の手前で前に出て胃と繋がっているために、とても難しい手術と言われました。
順調にいって8時間ほどかかると言われました。
同年12月16日に手術は行われましたが、12時間かかりました。
手術は成功しましたが、肺炎を起こし、一度治った後、さらにもう一度かかってしまい、一般癌病棟とICUの間を2往復してしまいました。とてつもなく多量にダボダボと出てくる痰を出すために喉のところに穴(気管孔)が開けられました。もちろん口からの食事は出来ず、点滴を打ち、また言葉も全く話せない状態が1ヵ月ほど続きました。
また気管孔が開けられると空気が鼻腔に達せず、ニオイのない世界に埋もれてしまいます。匂いがない。とてもむなしい。便箋などを使っての筆談はとんでもなくエネルギーを費やし、どうしようもない絶望感にさいなまれます。
痰の量が少なくなってくると辛うじて音声の出せるカニューレという装置がつけられました。この時はさすがに嬉しかったです。でも未だ自分の本当の声ではありません。でもとりあえず嬉しかった。
そんな中でも力を得たのは癌はリンパ節には達していませんでした。抗癌剤、放射線治療はしていません。
入院3ヵ月目の終わりごろに十分な量の栄養素を送り込むために腸ろう(腸に穴を開け、直接液体の栄養素を流す管を取り付ける)の手術を受け、テルミールという人工栄養剤を直接腸に流し込むことになりました。
しかしこの手術で7.3度ほどの微熱が半月ほど続きました。結局4ヵ月近くの入院となりましたが、体重は10㎏ほど減り、身体の筋肉は完全に落ち、腕は細い竹のようになり、尻の線はほぼ垂直になってしまいました。
東大病院入院時からのリハビリは「飲み込み力と発声回復」のための発声練習と舌の筋肉を鍛えるための舌の運動と、午前午後のそれぞれ10~15分の病棟の廊下での歩行でした。
入院時は他にすることがなかったので特別苦しいとは未だ感じませんでした。そして看護師さん達に「弓田さんのようにリハビリに頑張る人は今まで見たことがない」と言われました。そんな風に褒められると嬉しいものですが、これが本当に回復に繋がるのだろうかという言いようのない不安と疑念はいつもありました。
2013年4月10日に退院してからもこれらはもちろん続けました。
術後、肺炎を併発し、自力では出せない大量に出る痰を体外に出すために喉のところに穴が開けられ、また、これは退院直前までそのままで、退院半月ほど前にふさがれました。
入院時はこの穴から痰を吸引器で看護師さんが1日に何回もとってもらっていました。しかし退院後は自分で吸引しなければなりません。
病院で、自分で痰を取る練習をし、自宅に機械をレンタルで借りて自分で恐る恐る始めました。これがとても大変で重荷でした。
自分で喉の奥に管を送り、吸引するのですが、難しく、行きどころが悪いとオエッとなったり、喉が痛くなったりととても怖く苦痛でした。少しずつ痰の量もすくなくなるはずだ。そう自分に言い聞かせての毎日でした。
痰の量は減っても肺炎のため肺が傷み、肺活量が著しく低下して自分では吐き出すことが出来ないのです。喉の奥から強く吐き出すリハビリをしても遅々として状態は変わりませんでした。辛い毎日でしたが少しずつ痰の量も減り、自力で何とか吐き出せるようになったのは退院後半年くらい経った頃でした。
もう大丈夫だろうと思い吸引器を返却する時は少し心配でしたが、いつもあるところになくなった時は天にも昇る嬉しさを感じました。
何しろ術前の隆々としていた筋肉が完全に近くなくなってしまいました。椅子に座っているだけでも尻にクッションとなる筋肉がないので骨が直接椅子に当たり痛く、さらに30分もすると苦しく腕を上げただけでも疲れてハアハア息が切れてしまいます。しばらくは1日が言葉に表せないほどにきつくてきつくてしようがありませんでした。
退院当初は夜やっと横になっても咳でずっと眠れない。朝方うつらうつらして目が覚める。「あー、また朝が来た。またキツイ1日が始まる」目覚めから絶望的な気持ちで特に寝た後は身体に疲れが満ちていて死にたい気持ちでした。
退院直後は身体中の筋肉がなくなってしまい、椅子に座っているのもとてもきつかったのですが、とにかく起きていることを目指しました。5:30~6:00からの歩きそして朝食後には8:30から3~40分ほど眠りました。そして13:00頃昼食の後に1時間眠りました。それ以外は決して横にならないようにと務めました。とにかく時間が経つのが遅い。それがたまらなくたまらなく苦痛でした。
朝寝の後は風呂場で嚥下のためのリハビリとして舌を鍛えるための 15 分の歌、舌のリハビリと発声訓練、そして包丁研ぎで包丁を 100 回研ぎました。そしてボウルでホイッパーや
木べらで泡立ての練習や混ぜ方の練習をゆっくり 30 回から始めました。そして喘ぎながら1カ月ほどで、それぞれ 200 回出来るようになりました。
とにかく日常の仕事を出来る限り自分でしようと思いました。
少しでも身体の筋肉をつけるために、布団の上げ下げもしました。これも本当に辛かった。でも座り込みながら自分でやりました。
そして洗濯物を干す。これはとにかく辛い。手を挙げて一枚干すともうゼエゼエ少し休んで次という具合でした。
食器洗いもやっとの思いで立ち上がり自分でします。
昼食夕食の準備も体調の良い時は出来るだけします。さやえんどうの筋取り、その他何でも立ってやるようにしました。とにかく身体中の筋肉がなくなってしまいました。日々の仕事を何でも辛抱強くやっていかなければなくなった筋肉は戻らないんです。
「キツければ筋肉が戻ってくるんだ」そう思い込ませてやりました。
でも体調と腹の具合は日々も時間によっても大きく頻繁に変化します。続けることは本当に大変です。
しゃがむこともきつい。立つのもきつい。何するのもきつい。
「少しずつ先へ進むんだ」と自分に言い聞かせても「でも本当に元気になれるんだろうか」という疑念はいつもあり、それとの闘いでした。
前述したように退院直後、寝る時の咳はとりあえず睡眠薬でしのぎました。
2ヵ月ほどで食道の縫合部分の傷も少しよくなってきたのか、むせたような咳が少なくなり薬を飲まなくても眠れるようになってきました。
そうなると1日で一番うれしいのが寝る時でした。「あーあ、これで辛かった1日もようやく終わる」
この気持ちが全てでした。でも辛い目覚めも待っていることが頭をよぎります。
退院の翌朝からまず朝は6:00に起きて15分歩くことを始めました。
まだその頃の自分にとっては4月の朝もとても寒く感じたので、狭いマンションの部屋の中を歩きました。他の人の足で歩いているようで力が入らずフワフワでした。
すぐに息はあがり、息が詰まってきました。「でも続けなきゃ」それだけでした。
4月も末、だいぶん暖かくなり、八重桜が盛んなころ、恐る恐る外に出て平坦なところをゆっくりゆっくり、初めは10分くらいでしたが、それでもとにかく体全体が苦しくすぐにへたり込みたくなりました。でも進むんだとしかありません。
まばゆいばかりの光の中で、何故か自分だけが取り残された疎外された存在のように感じました。それでも春の光は何か嬉しかった。少しずつ少しずつ距離を伸ばし、6月頃には本当にゆっくりですが30分歩けるようになりました。7月頃になると太陽の光の強さが怖くて、5:00に起きて5:30に歩き始めるようにしました。そして9月の終わり、少し涼しさが出てから40分となりました。
2014年4月末頃から口を通しての食べ物の量が少し増えるにつれて下痢が始まってきました。
朝ごはんを食べると少しでもう体がぐったりとどうしようもなくきつく動けなくなって、椅子にずっと座りっぱなしです。そのうち腹が痛くなり、下痢が始まります。
回数は1日に最低3~5回あるいはそれ以上です。ほぼ出て少し腹がおさまると起きていられなくて30~50分ほど頭を高くして横になります。これで腹が収まることも有りますが、昼まで続くこともあります。昼もまた少し口に入れると腹が痛くなり、少し水のような便が出て半分くらいの日は3時頃まで続いたり、夕方まで続くこともありました。
そして夕方の食事が終わるともうぐったりして30分時〜1時間は少しも動けません。少しずつ気を取り直して歯磨きをすると少し楽になります。そしてシャワーを浴び終わってから寝るまで2時間ぐらいが1日でいちばん身体が落ち着く時でした。
主治医に下痢のことを言っても「手術によって腸はかなり弱っているのでどうしてもそうなります。下痢は気にしないで下さい」と言うことでした。誰でもそうなのかと思うと少しは安心しますが、やはりとてもつらく、時には絶望的な気分にさえなりました。
でも後にある方々から潰瘍性大腸炎の患者は下痢が2~3年も続き、またこの病気で大腸を切除した人は水分を吸収する大腸がなくなるので下痢は一生続くということを聞き、「俺より大変な人もいっぱいいるんだなぁ。俺も頑張らなけりゃ」と思ったこともありました。
下痢は少しも変わることなく続きました。
入院中の2度の肺炎によるものでしょうか。肺がある胸腔に水がたまるようになりました。入院中は麻酔の注射の後、わき腹に太い注射針をし、胸水を抜きました。
これはとても怖くて緊張する処置です。
一度はこの処置の後、急に凄い悪寒に襲われ、身体中がガクガクふるえたこともありました。これは本当に言葉にならないほど不安な辛い、震えが止まるまでの4~5時間でした。
退院から約2ヵ月後のこと、朝、歩いていると、とても息苦しく息がつまり身体がきつくなりました。夜も息苦しくなって横になって入れません。救急車を呼んで近くの病院に運ばれたこともありました。しかし原因はよく分からずじまいでした。
またある時は本当に息が出来なくなってきて頭と身体中がボーッとなりとても苦しくなり、東大病院への再入院となりました。
検査の結果胸水がかなりたまっているとのことで、また胸水を抜きました。2日間かけて1600㏄の胸水が出てきました。精神的な不安からでしょうが、心臓も頻繁に脈が早くいつも以上に不整脈が多くなりました。
でも入院3日目頃、とにかく全てのものが身体から失われてしまったから今の症状があるんだ、早く退院して身体を作っていかなければと思い、4日で退院することに決めました。
以来、多い時は1週間に1度、普通は2週間に1度、胸水を抜くために通院しました。水がたまると酸素の供給が不足し、頭はボーッとし、目がしっかり開かず、身体は言いようのない疲れ、虚脱感に襲われ苦しくなります。それでも出来る時は歩き、家事、筋トレをしました。胸水を抜く時に一度は針が神経に触れ、1ヵ月ほど上半身右側が痛みで動かなくなりました。何度やってもこの胸水抜きは怖く、痛く苦痛なものでした。
病院に行くたびに次はまたいつ頃来るのか、また一生続くのではないかと考えると絶望的な気持ちに襲われました。このころは身体も心もとても辛い時期でした。
一番の問題は嚥下障害でした。これは食べ物が飲み込めないだけではありません。唾液も飲み込めないのです。起きている間はよく出ます。
特にごはんを食べていた時間頃に泡を伴って本当にジャブジャブ出てくるのです。とにかく辛い。むなしい。
家にいる時は器に出せますが、病院に行く時にはティッシュを1箱とビニール袋を持って出かけます。口にいっぱいになるとティッシュに出し、袋に入れながらのタクシーです。
退院後初めて行った床屋さんでは訳を言って口にたまってくるたびに手を止めてもらい、ティッシュに取りました。とても申し訳なく情けなかった。
でも不思議なもので夜眠る頃になると止まります。たまに出続けることがあると、たまりませんでした。
東大病院を退院後すぐに飲み込みの病院に行き始め、2014年5月頃から、嚥下のリハビリの成果か、少しずつ飲み込めるようになってきました。でも未だ飲み込めない頃、寝ていてちょっと意識がある中で、自分の唾液を無意識のうちにコクンと飲み込んでいることに気づいた時はとてもビックリしたし、嬉しかった。あーあ、少しずつ良くなっているんだと思えました。
東大病院退院後、次に転院したリハビリの病院が本当によかったと思います。この分野の治療をしている病院も少ないですし、それぞれの評価も私には分かりません。
パンフレットを見て何となく決めたのが昭和大学歯科病院でした。正に運がよかったとしか言いようがありません。
退院時、東大病院ではほぼマヒしていた喉と舌の筋肉が少し動き始めたので、ゼリーから食べる練習を始めてよいということでした。
東大病院を退院した翌日、タクシーでいつ倒れてもおかしくないようなフラフラの状態で初めての嚥下障害リハビリのための病院に行きました。
1時間ほど舌の筋肉や頬の動きなどの検査をし、最後にレントゲンで見ながらの食べ物の飲み込みの検査でした。バリウム液を混ぜたドロッとした液体を飲み込んでみて、それが胃へ正しく流れていくか、気管支へ行かないかを見るものです。
気管支へ行ってしまうと肺炎を起こしやすくとても危険です。飲み込みの検査を数回行い、結果はいくらかは胃に行かず、横に漏れているが、気管支には行っていないので、ヨーグルト、プリンなどを食べ始めて大丈夫ですという診断です。
わたしは本当にビックリしました。
「え、本当に食べてもいいの?」
という半ば信じられない、でも本当に嬉しい先生の言葉でした。
そして横に漏れた場合の対処法、頭を低くして上半身を水平くらいにして少しじっとしていると引力で喉に戻ってきたところを吐き出すというものでした。その日は久々に本当に嬉しさを感じました。退院の翌日の外出、長い検査、帰りは目が回って倒れそうでした。よく倒れなかったものです。
しかし翌日、いざそれをプリンでやる段になるととんでもない恐怖心が湧いてきました。
もし気管の方に行ったらどうしようという気持ちに押しつぶされ、なかなか口に入れる気にはなりません。
でも「やらなければ先に進まないんだ」と自分に言い聞かせ、小スプーンにプリンを少し取り、口に入れ、30回ほどゆっくりと噛み、ごっくんと飲み込みました。
久しぶりに食べ物が喉を通りました。何かザラザラした食べ物のイメージとは異なる不快な異物が喉を強くこすりました。うまくいきました。飲み込めたようです。本当に嬉しかった。
しかし2さじ目を口に運ぶ気にはなれません。5分ほどしてやっと口に入れました。
噛んでゴックン、今度は明らかに喉の横に行ってしまいました。「あ、やったぁ」慌てて必死に頭を沈め、待ちました。何かいろんなものがダラダラ喉の奥から出てきました。
続けて数度大きく咳払いをして何度もティッシュに取りました。もう気は動転してしまいました。もう今日はそれで終わりでした。
こんな具合で毎日恐怖心と闘いながらの飲み込みのリハビリが始まりました。
一週間ほどは普通のものよりかなり小さいプリンも1個も食べきれませんでした。その日の飲み込み具合で一喜一憂しました。
この時間が近づいてくると極度に緊張し怖さが気持ちを押しつぶしました。でも先へ進もうとする気持ちも少しずつ芽生えてきました。慣れてくるにつれて、量も少しずつ増え、少しずつ自信もついてきました。
プリンからヨーグルト、豆腐と食べるものを思い切って増やしていきました。
半月ほどして柔らかい固形物が何とか飲み込めるようになると、次は飲み込みが難しい液体である味噌汁にとろみアップ粉末でとろみをつけて挑戦し始めました。
また水や牛乳にも濃いめにとろみをつけて少し飲み始めました。普通の水は喉を過ぎるのが早いので誤嚥しやすいのですが、とろみをつけると流れ方が遅くなり正しく飲み込みやすくなります。
しかしとろみをつけると煮物も味噌汁も別なものになってしまいます。
初めはそれでも口に入れられるので嬉しかったのですが、半月もするとこれも苦痛なものになりました。また煮物などをジューサーにかけてペースト状にして食べました。
しかしペースト状にすると味わいが全く変わってしまい、一週間もすると全く嫌になってしまいました。飲み込みのコツが分かると、いろんな食べ物、料理を、本当に思い切って意志を持って食べていきました。
「先へ進もう」とする自然な意思が強いのでしょうか。1ヵ月後の飲み込みの検査でも食べ物の範囲が広がる速さに主治医の先生が驚かれました。
2ヵ月後にはほぼ何でも食べられるようになり、さらに驚かれました。
そして6ヵ月目に水の飲み込みの検査が行われました。まだ水の飲み込みは不安定でした。7ヵ月には水もOKが出て通院はもうしなくて大丈夫ですと言われました。
「あーあ、やっと乗り越えられた」
嬉しさがこみ上げてきました。
少しずつ少しずつ食べる量が増えてきた5月の終わり頃、急に血尿が出始めました。赤ワインよりは薄いけれどかなりの濃さでした。血尿は術前から続いていました。心臓の不整脈のため血栓が出来るのを防ぐための抗凝血剤のワーファリンを飲んで血がサラサラになっているせいもあるとは言われていました。
ワーファリンは出血すると止まりにくいので、入院してから手術の際に出血を抑えるためにワーファリンを点滴でヘパリンという薬と入れ替えてから手術をします。術後も出血は続いていました。
しかし退院1ヵ月前くらいにまたワーファリンに切り変わってから出血が止まりました。4ヵ月も身体も動かさず寝ているばかりで物を食べていないので身体中の血流も少なかったので止まったのだと思います。しかし5月の末、食べる量が増えてきて血流の量が増えてきたからでしょう。再び濃い血尿が出始めました。
「ああやっぱりまたかぁ」
とてつもなく落ち込みました。東大病院で膀胱内視鏡、CTで見ても腫瘍はなく、腎盂からの出血だそうです。ずっと大酒を飲み続け、一時血糖値がかなり上がって毛細血管を傷めてしまったからだと思います。まぁこれも自業自得としか言えないです。
これはずっと続いてきました。特に朝ごはんを食べた後、早歩きや筋トレの後などは深紅色でした。頭痛がひどくなりました。主治医によればその頭痛は出血のためではなくて精神的なものでしょうということでした。1日に人間の身体で作られる血液の量は30mlと聞きます。でもトイレでの真っ赤な色を見ると30mlを越えているのではないかと恐ろしくなります。
しかし身体を動かすことを止めれば全身の新陳代謝が低下して先へ進めないと考え、怖くても運動は続けました。
前述したように腸ろうの手術は退院1ヵ月前に受けましたが、術後に37.1~3度の微熱が続き、退院が1ヵ月ほど遅れ、これで最後の筋肉、体力は完全に失われました。
でもそれまでは透明な点滴だけでしたが、より栄養素の濃厚な幅の広いものが摂取できるということで少しホッとしたところもありました。
1本450kcalのテルミールという人工栄養を1日に4本注入します。でも注入する速さが大事で短時間で多量に注入するとすぐに下痢が始まります。
病院では朝6:00に起きて、6:30に水を1ℓほど同じ管で注入してそれからテルミールの注入でした。
1本1時間30~50分。計6~8時間ほどかけて腸に送ります。病院では諦めが先に立っていますから毎日それが当たり前に思ってこなしていました。
退院する前に、自宅とお菓子教室に点滴棒のリースをして退院しました。しかし病院とは違い、誰もいない狭い部屋でずっと点滴棒に繋がれて、細々としたことやトイレなどをするのはとても大変でした。
また突然の「事故」もありました。腸から管が抜けかかったり、飲み込みがずっと出来なかったので人工テルミールだけでなく薬は水で溶いて注射器に入れ朝晩入れていました。
新しく出された粒の粗い薬が管に詰まったりして、タクシーで夜東大病院にかけつけたことも3度ほどありました。また、管は抜けやすいので、絆創膏で固定するのですが、かぶれやすいので毎日その場所を変えるのですが3ヵ月もすると貼れる所が全てかぶれて毎日痒くて痒くてたまらなく、毎日がイライラの連続でした。
正に自分自身が点滴棒に繋がれた孤独で哀れな猿のように思えました。
10月頃になると食べる量もかなり増えて、市販の高カロリーゼリーなどを食べればテルミールを注入しなくても何とか体重が65㎏前後で維持できるようになりました。
主治医の先生がそろそろ腸ろうを取ってテルミールをやめて口からだけの食事にして腸の負担を軽くして下痢が軽くなる方向にもっていきましょうと言われました。
でも口からの食べ物だけで体重を維持できるかどうか自信がありませんでしたが、やはり「とうとう取れるか。やっとここまで来た」と思うと本当に嬉しかったです。
抜いた後も管が入っていた穴の傷や管が入った腸のあたりはずっとはかなり痒かったり痛かったりでしたが、あの煩わしい、忌々しい管がないというのは本当にすっきりとして、気持ちがとても軽く嬉しくなりました。
腸ろうは予想よりかなり早く取れました。でも高齢になると嚥下力もなかなか回復せず、ずっと取れず一生つけている方はとても多く、こんなに早く取れたのは奇跡に近いと言われました。
私は術前はどんなに体重が増えた時も、血圧は正常で高い方が110、低い方が70~80でこれが自信のよりどころでした。
血圧が高ければ血管が傷み、弾力を失い、破れやすくなり脳卒中や脳梗塞その他の恐れが強くなり様々な病気を引き起こします。正に大事な健康のバロメーターの一つです。
入院時は身体はしぼむ一方で血流も少なくなったからでしょう。血圧は正常でした。
でも今考えれば栄養素の極めて少ない液体で命を繋いでいたのですから他の部分と同じように血管もひどく傷んでいたと思います。
退院して少しずつ身体を動かし、人工栄養や食べ物を摂取するようになり血液の量も多くなり、血圧が高くなってきたのでしょう。胸水を抜く時は緊張感も加わって血圧が200を超えることもあり本当に驚きました。
いつも150以上はあるのです。怖さと緊張で高いのだろうと思いましたが、少しずつさらに血圧はあがっていきました。
退院後、心臓を見て頂いている病院で計ると、2015年9月頃までは確実に平均してかなり高い150くらいに安定してしまいました。
術後1年目の精密検査を12月に受診し、異常がなかったことから元気が出て、昼ご飯前にも歩き始めました。初めは行き7~8分、400メートル、帰り7~8分でした。昼の歩きはとても苦しく、200メートルも行くと本当に座り込んでしまいそうな、息が詰まって苦しくなりました。5分ほど休んで必死の思いで帰ってきました。
術前には毎年3月の初めから2015年4月のはじめに咲いている2.5キロメートル先の様々の種類の桜並木の開花になんとか間に合わせたいと少しずつ距離をのばしていきました。でもちょっと調子がいいからといって500メートルも距離を延ばすと、身体の具合が悪くなり、3~4日動けないということの繰り返しで、桜の花の時期には間に合いませんでした。
2015年7月頃、ようやく桜の木にたどり着くことができました。以後、たどり着くことが出来たりできなかったりしながら、9月頃は天気のよい日大体往復が出来るようになりました。
週に3日の出勤の日は朝の歩きを45分に増やしました。
2014年12月末、あと少しで新しい年、下痢もほんの少し改善されてきました。次へ進まなくては。何か新しく始めなくてはと考えました。
そうだ。テレビでラジオ体操をしようと思い立ちました。
今の自分には体がバラバラになりそうに思えるほど強度な運動に思えましたが恐る恐る始めました。でも続けて出来る訳がありません。テレビを見ながら軽く身体を動かすだけでしたが、「皆の体操」と「ラジオ体操」を終えると身体中が疲労でふるえるほどでした。
思った通りにきつい。特にショックだったのが跳躍の時「えいと飛び上がったつもりが、足が全く床から離れようとなかったことでした。本当にショックで戸惑いました。
「あーあ、まだまだだなぁ」と思いました。
でも少しずつ少しずつ見様見真似に身体を動かしました。跳躍も足が床から離れ始めたのはラジオ体操を始めてから2ヵ月後くらいからでした。
「あっ、離れた」と思わず声を上げました。やっと第一体操、第二体操のどちらか一つを何とか続けて出来るようになったのは2015年の6月頃でした。半年もかかりました。
でも、このラジオ体操はホントに始めてよかったと思います。日々のリハビリの質を高めましたし、身体が少しスムーズに動くようになり身体に力が入るようになりました。
どうにもきつくて出来ない日もありましたが、とにかく頑張りました。あれから一年、今では第一第二体操も続けて出来るようになりました。それにしてもこれを始めていなければどうなっていただろうと考えるとぞっとします。
運動を始めて半年くらいから両脚の付け根が少し膨れ痛くなってきました。すぐにそ形ヘルニアではないかとピンときました。
私はかつて12~13年ほど前にそ形ヘルニアの手術を受けました。右足の付け根からピンポン玉より少し小さいくらいの大きさに腸が出てきました。これはここの筋肉が年齢と共に弱まり、裂けて腸が飛び出してくるものです。
腸がでないように筋肉の内側にネットを張り、外側を縫合する手術です。術後ずっとこの部分が痛み膨れたような状態でした。
ところがその当時ちょうど「いりこサプリメント」が完成しました。
そして食べ始めて2ヵ月ほどでほとんど腫れはひき、痛みもなくなり「いりこサプリメント」の力を見た思いがしたものです。
しかし今回、食道癌のための4ヵ月の入院、そして点滴生活で栄養素が枯渇して筋肉が衰え再発しかかっていたのでしょう。すぐに病院で見てもらいましたが、まだはっきり出てきている訳ではないので様子を見るしかないとのことでした。
インターネットでそ形ヘルニア用のサポーターを取り寄せましたが、効果はありません。いろいろ試しました。布きれを固く巻いて筒状に縛り、両脚の付け根にサポーターとの間にはさみ、痛い部分を圧迫しながら歩き、ラジオ体操、筋トレをしました。
いつか「いりこサプリメント」と「ルネサンスごはん」の栄養素が修復してくれると信じて痛いのを堪えながら運動をつづけました。まぁ、どんどん昔の古傷が出てきます。
今も両脚の付け根には布きれを丸く固く巻いた直径3cmくらいのものをあてて長歩き、ラジオ体操や筋トレなどをしています。
2015年8月頃から痛みはほとんど感じなくなりました。小さな前回の手術のネットの一部分が飛び出た突起はそのままありますが、手術跡の一帯がかなり強い弾力が出てきてかなり筋肉が回復してきたような気がします。左側は少し膨れて柔らかい弾力ですが痛みはありません。このままいってくれればと思います。
2014年の12月頃は、レントゲンでの胸水の量はあまり変わらないようなのですが、息が途中で止まらないでほんの少しずつ長くなりました。
でも最後まで息を深く吸えるのではありません。途中で止まるけれど止まるまでがほんの少しずつ長くなってきたということです。
たまる水も500㏄くらいに少し少なくなってきました。どうしようもなく息が詰まる苦しさは消えていきました。そして思い切って1ヵ月、胸水を抜かずに過ごしてみました。かなり頻繁に苦しく詰まることがありました月1回のペースで来ました。
そして3〜4ヵ月で2ヵ月に1度胸水を抜くようになりました。
2015年6月頃にさらに息は少し長くなりました。そして思い切って胸水を抜くのを辞めました。以来、胸水は抜いていません。
そして2015年夏頃の検診では、レントゲンには明らかにほとんどなくなっていました。
私は嬉しさよりもビックリしてしまいました。
私も目にもはっきり分かるレントゲン写真での変化でした。
下痢が軽くなり、食べ物の栄養素が効率よく運ばれるようになり、身体の細胞組織が修復されてきていることを強く感じました。
胸水を抜く「胸腔かんし」はひどい時は週に1回、2週に1回が普通でした。怖くて痛くて抜いた後は1週間は右半身が痛くて、運動は出来ない。入院中、胸水を抜いた後高熱が出たこともあり、とても不安で辛い日々でした。
それが胸水がたまってないんですから信じられない嬉しさです。
以来、胸水がたまった時の我慢できない息苦しさはなくなりました。調子のよい時には少しも詰まることなく深く息を出来るようになりました。
これからは歩く長さや速さなどの負荷を上げて1年後にはもう少しでも楽な息遣いになればと思っています。
術前のような健康な息遣いは恐らく無理と思いますが、今より少しでも軽くなりたいと思っています。
ほぼ一年半をかけて歩く時間を15分から60~80分にまで伸ばしたり、筋トレを少しずつ重くして運動の量と強さを増してきたからでしょう。あの最悪の強烈に痛痒い状態はなくなってきました。
足首が太くなりくるぶしのところが丸く腫れてしまうことはなくなりました。朝起きれば両足首は細く全くむくんでいません。でも身体の具合が悪く歩く時間が少しになるとやはり少しむくみ痒くなったりします。
これもさらに歩く時間を増し、下半身を使う運動を増やしていけばほぼ完全に克服できると思います。
退院したばかりの両脚の状態は本当に辛く不安なものでした。あと少しだと思っています。
ただ両脚の裏の部分的なしびれは少しは薄れたような気がしますがまだよく分かりません。
また平らなところに裸足で立っても、何かイボイボの物がたくさんあるところに立ったような気持の悪い感覚はもう治らないのではないかなという感じがします。
でももっと両脚を鍛えていけば今よりは少し気持ち悪さは消えていくのではないかと、それくらいの期待でやっています。でも自分の足とは思えない、何とも言えない不自然で気持ちの悪い感触です。
でも身体にほとんど脂肪と筋肉がない訳ですから、身体の熱はすぐ外に逃げていき、身体の芯まで周りの気温にさらされ、
そして末梢神経と毛細血管のなくなった身体のしびれを伴った不快感は特に冷房をかけている時に辛かったです。
靴下をはいても足がすぐに冷えてしまい、寒くなり、でも冷房を切るととんでもなく身体に熱が襲い掛かる。あの正常な寒い、涼しい、暖かい、暑いの感覚の分からない状態は本当に心細く、「俺は夏や冬を越せるんだろうか」と言いようのない不安を感じさせたものでした。
今はまだ64~5kgで体脂肪率6~7%の状態で、術前とはもちろん違っていますが、足の裏を除けばほんの少し術前の感覚に戻りつつあります。退院直後のたよりない感覚からは抜け出られたようです。
あれだけ全く自分の身体の感覚と思えなかった全身の、特に両脚の感覚はかなり戻ったのかなと思います。
あの頃は起きている間はずっと付きまとっている、力が入らない疲れてしびれたような感覚はかなり収まってきました。
時々両脚の疲れた感覚を忘れていることがあります。
手があの頃から比べると軽やかになってきました。
筋トレやラジオ体操など少しずつ負荷を増やしてやっていけば必ずこのしびれた感覚はなくなるという手ごたえを感じています。
筋肉も血管も神経も汗腺も何もかもがなくなってしまったんですね。
初夏、夏、初秋と気温25℃以下の時を選んで60分の桜並木までの長歩きに出かけます。もちろんかなり暑いです。
でも60分、とんでもなく疲れるくらい歩いても汗が本当に出ないです。帽子をかぶっている頭、額と腹にしか汗が出ない。これも本当に情けなくて辛いものです。
多分、それなりに汗が出るようになるにはもっと体が出来るまであと一年くらいはかかるような気がします。一度汗まみれになってみたいです。
何とも不自然な感じです。
退院した時は膝の痛みはありませんでした。何しろどこにも筋肉は全くありません。しゃがんで何かを取ることも出来ません。下の棚の鍋を取る時は床にペタッと座らないとだめでした。
水をつめ250gにしたペットボトルの筋トレと共に1回のスクワットから始めました。1回でも起き上がるともう下半身はグワーッと疲れ脱力感がおそいます。
「苦しくてもやるしかないんだ」
そう自分に言い聞かせ、まず半月間1日1回そして次の半月は2回と増していきました。
今は20回まできました。あの苦しさはもうありません。
でも全くない筋肉から始め、急速に回復させようとしているのですから、すんなりいく訳がありません。
2015年の夏頃から両脚の膝の上下の筋肉がかがんだり膝を回したりするとカクンと音がするようになり、少しずつ痛みが増してきました。
そして秋頃には右足のひざの上が大きく腫れてきてかなり痛くなってしまいました。
慌てて整形外科に行きました。両方の膝のレントゲンを撮られました。幸いなことに膝のクッションの軟骨は20〜30歳の状態でその横の筋肉が痛んでいるということでした。
テーピングで治るとの頃でホッとしました。それから1ヵ月、右膝はかなりよくなってきました。腫れもひいてきました。
きっとそれほどかからずにテーピングをしなくても良い日が来ると思います。
でもどうせ全ての部分が悪いだろうと思っている自分にとって、一部分でも軟骨は丈夫とのことでホッとして嬉しかったです。
視力も全く落ちてしまいました。何とか早く合った眼鏡を作りたいと思いましたが、眼科医の検診や眼鏡屋さんに行く体力と気力がなかなか出ませんでした。
本当にやっとその気になり、2015年8月にひとつ隣駅の眼科を見つけて行きました。
でも一番怖かったのは目の検査でした。身体の中に全く栄養がいかない中で眼底の毛細血管もつまったりしているんじゃないだろうかとか考えました。もしそうであれば脳の血管も危ないということになります。
でも結果は予想に反して眼底はきれいで申し分ないといわれました。ただ周りの方が少しだけ全く心配のない程度に白内障が年相応に出ているので半年に一度来れば大丈夫ということで安心しました。また眼鏡で視力も1.2まで上がることが出来ますと言われました。とても嬉しかったです。
退院後、心臓を見て頂いている病院で計ると、2015 年 9 月頃までは確実に平均してかなり高い 150 くらいに安定してしまいました。
これはとてもショックでした。脳卒中などの危険が高まるし、心臓なども血流が悪くなっているからです。さらに高血圧の薬を飲むと血管は傷んできます。
でもこの頃は血尿が次第に薄くなってきた頃で、また胸水もたまらなくなったので、身体の修復は進んでいるという小さな実感はありました。
このままあと 4~5 ヵ月で「ルネサンスごはん」と「いりこサプリメント」を摂り続け、基本的な栄養素が送り続けられれば、きっと血管も修復され血圧もさがるはずだという心もありました。でも人のことは軽く言えますが、いざ自分のこととなるととても不安が増してきます。
10月の診察では150でした。家で計ってもこれくらいでした。次回も高ければ降血圧剤を飲んで下さいと言われました。そして食事から塩分を減らすようにと言われました。
でもこんな身体の組織が崩壊した状態だからこそ、その修復には海塩が必要だというのが確信です。
「ルネサンスごはん」は海塩の量は多い。でもこれは変えずに、今までよくやっていたさらに塩を加えることを止めました。
でも 12 月の診察の前、一週間の血圧記録を自宅で 2 ヵ月ぶりに計ってみると朝は大体上が135、下が 80、夜は120~125くらい、下は70~80と間違いなく下がっていました。
でも診察では緊張の為かやはり150でしたが、先生から「じゃあ大丈夫でしょう」と言って頂き、薬は飲まなくてよくなりました。
診察の後、家に帰ってから慌ててもう一度計ってみました。ちゃんと下がっていました。
上が 125、下が 75 でした。ホッとしました。小心者で困ります。
血圧はNaclを減らすだけでは下がらないこと、栄養素が豊かであれば逆に海塩は必要なのだということをわが身をもって改めて再確認することとなりました。
もう下痢は一生続くのではないかと思った時もありました。でもようやく少し軽くなってきました。2015年12月末頃から便の1/3~1/2が固形で出てくるようになりました。
下痢がいくらか軽くなった12月末以降、栄養素がより多く吸収できるようになったからでしょうか。1ヵ月でかなり身体に変化が現れてきました。
まず、ヘナヘナだった爪が硬くなってしっかり出てきました。
顔の肌がしっとりすべすべしてきて顔のくすみが消え、明るさが出てきました。
前年の10~11月頃は全身がカサカサで全身がかゆくてしょうがなかったのがかゆみは全くなくなりました。
髪もほんの少し増えたような気がしてきました。
そして何よりも身体に力が出てきたように感じました。常にあったきつい、ぐったりした感覚が少し薄らいできました。退院当初は細い血管が2本くらいしか見えなかったのが、両手の血管も大きくなりはっきり見えるように太くなって浮き出てきました。
「あーやっと食べ物の栄養素が吸収され始め、体のあちこちに届き始めているんだなと強く感じました。
「ルネサンスごはん」でも既に明らかになっているように、基本的な栄養素が十分補給されれば肌はしっとりすべすべとなり、くすみも取れて白さが増してきます。「ルネサンスごはん」実践者はきれいな肌の人が驚くほど多い。化粧品で肌が本当にきれいになる訳がありません。幻想は捨てましょう。
飲み込みのリハビリを始めた約1ヵ月後(2014年5月頃)から「ルネサンスごはん」の柔らかく煮たおかゆととろみをつけた味噌汁をお椀1/4、そしてとろみをつけた煮物少し、柔らかい卵焼きなどを食べ始め、本当に少しずつ量を増やしていきました。しかし毎日が大下痢ですからその効果をはっきりと感じることはありませんでした。
「いりこサプリメント」は同年10月頃から恐る恐る、1/2枚程度から本当によく噛んで食べ始めました。でも健康な時はあれほどうまく思えた「いりこサプリメント」は一口口に入れた後、グッと喉と腹がつまり食べたいとは思えませんでした。それでもこれが自分をすくうと信じ切っていましたから頑張って食べました。2枚に増やすと下痢がひどくなるような気がして、また1枚に減らすなどして様子を見てまた増やす。そんなことが暫く続きました。
腸が極度に弱って今は吸収する力がなくても必ず少しずついりこサプリメントの基本的栄養素が腸を立て直してくれると思っていました。
そして同年12月の末から下痢が少し軽くなってから、「ルネサンスごはん」と相まって驚くほど速く体の様々の部分が回復し始めたと思っています。
でも不調な時、特に消化器系に疾患がある場合はたくさんの栄養素が凝縮されたいりこサプリメントを消化しきれずにそれを拒否して下痢になったと思います。でも少しずつその栄養素が腸その他の状態を改善してきたと思います。
既に「食の仁王ブログ」に掲載された頂いた手紙にあったように、消化器系以外の癌疾患の方はいりこサプリメントをとてもおいしく感じ、また体力の回復がしっかり早まったことも事実です。
普通の健康な人の胃にはフタがあって逆立ちしてもそのフタが閉じて胃の中のものは口や食道には出てきません。
でも食道の切除手術では食道を疾患の程度に応じてある長さを切り取って胃を引っ張って伸ばし、上の残った食道と縫合します。
ですから胃のフタはなくなり、物を食べたりすると本当に喉元まで食べたものが来ていていつでも飛び出してきそうな不快な状態です。
実際ごはんを食べている最中に大きなくしゃみをしたりすると、喉からピュッと食べたものが勢いよく出てきたりします。
通常のように強い胃酸が出ていると、残った食道と気管支を傷めてしまいます。それで強く胃液を抑えるための薬を夕方1錠毎日飲んでいます。
それでも夕食を食べるのが遅かったり、ちょっと食べ過ぎたりすると胃酸が登ってきます。退院直後はこの胃酸が食道と胃の縫合部分を刺激し、一晩中咳をして眠れなかったので睡眠薬を飲んで寝ました。
これは2ヵ月くらいで収まりましたが、今でも時々、寝ている時に胃酸が出て、気管支の入り口につくと、喉がやけて痛くて横になれず、1時間くらい椅子でやけるような痛みが治まるまで起きています。
今まで4度ほどありますが、胃液が気管支の中にちょっとでも入るともうだめです。
喉は激焼けです。もう2時間は寝られません。ゲホゲホと続けて咳をし、目からは涙が溢れ口にはドロッとした唾液が出てきます。小さな唸り声をあげてただただ痛みが少しずつ引いていくのを椅子に座って待つしかありません。
寝ている時でもすぐに分かり目が覚めます。慌てて起きて水を飲んで胃酸を流し落とします。でも気管支に入っていればどうしようもありません。
食後3時間は横にならないように、そして食後30分に胃液を抑える薬を飲まなければなりません。
胃酸が喉に来ないように本を3冊重ね、座布団を敷いてその上に高い枕をおいて寝ています。今は諦めですが、初めは朝起きると首も頭もとても痛くなりました。
2015年12月の末ごろには便の1/3が固形で出るようになり、身体の修復はかなり進んできたと思います。でもその後はそれほど大きな変化はありません。
確かに3日に1回くらいは下痢のない日があるようになりました。でもあと2日はやはり程度の差はあっても続いています。
今はかなり歩く時間や筋トレなどが増えてタニタのインナースキャン付きの体重計によれば基礎代謝は1700kcalくらいと高くなってきたこともあり、今食べている量では体重はそれほど増えず、1日に150〜200g増えるとまた下痢で74㎏に減るといった状態の繰り返しです。
下痢や腹痛があると身体に力が入らず、とても1日が辛く元気がでません。私にはこの状態がいつまで続くのか予想はつきません。あと1年くらいかかるのかと思います。それくらいかかっても何とか治ってほしい。
下痢をしながらでも「ルネサンスごはん」と「いりこサプリメント」の基本的な栄養素を身体と腹に送り続けていくしか手立てはないと思います。
腸ろうがついていた頃の夕方までほぼ毎日続いた下痢の苦しさから見ればかなりマシだ、そう思って頑張るしかありません。
2015年の7月から1週間に1度ほど腸ろうをつけてお菓子教室に行くことにしました。もちろん長くは無理で、会社の車かタクシーで12時頃着き、そして夕方5時頃まで居てちょっとだけ仕事をして帰りました。
初めは立つと身体中と頭がフラフラして立っているのもやっとでとにかくきつかったです。
同年9月から週に2回、1月から3回まで増やしました。
週の内あと4日はリハビリに1日中を当てました。
このころまでは行き帰りもタクシーでした。もうそろそろ自分の足で通わなければと思いました。
まず週1回朝自宅からその頃は15分近くかかりましたが歩いて駅まで行き、電車に乗りました。わずかな短い時間でしたが、駅までは息が出来ぬほどにつまり苦しく目が回りそうでした。
そして電車2つの線を乗り継ぎ、25分間の乗車です。術前、私はほとんど電車で座ることはありませんでした。行きがお昼時の12時頃ですから電車は人が少なく席が空いていることもありますが、術後も決して座りませんでした。我慢しなければ体力も先へ進まないからです。
そして代官山駅です。階段はまだ登れませんでした。エレベーターで上に上がり、そしてまたきつさの極みの中歩きました。店につけばもう1日分の体力を使っているようでした。
そしてすぐ昼ご飯を食べ、30~40分椅子で眠り、起きて少し仕事をしました。2015年2月頃から歩き、2回~3回と増やしていきました。
でも帰りはもう身体に力が入らずタクシーで帰りました。
5月、未だ気候の柔らかなうちに帰りも電車で帰らなければと思い始めました。そして週1回から2回~3回と増やしていきました。
ちょっとずつ授業をし始めました。初めは20分ほどのデモンストレーション1回がどうしようもなくきつく辛く、下を向いてテキストを見ながら話をするのはとても辛く、初めは声がしっかり出ず、息がつまり、苦しくなりました。でもそこで止めれば先へは進めません。とにかくやれる限りはやらなければいけない。
9月から週1回だけ9:30に早く教室に着くようにしました。でもこれは今でも本当に不安です。
朝はいつ、何回トイレに行きたくなるか分からない。具合がよいと思っても、所かまわず急変します。駅のトイレを2回はしごして3回目やっと店で間に合ったこともあります。食べてから最低1時間待たないとその危険はとても大きくなるので、私にとっても早出の時は5時に起き、30~40分歩いて6:30から朝食を摂り、そして可能な限り排便してから疑心暗鬼で家を出ます。電車の中では腹の具合で頭の中はいっぱいです。
この朝の状態は今もあまり変わりません。あと1年でしょうか。1年半でしょうか。少しでも早く具合がよくなることを祈るしかありません。
今は週1回早出、2回12:30頃に出勤しています。
授業も助けてもらいながら一通りこなせるまでになりました。
それにしても生徒さんの目もはばからず教室に点滴棒を持ち込み、人工栄養をさげて腸に注入しながら授業をしようとしたのですから、今考えればあんまりないことなのでしょう。
とにかく先へ進もうとする気持ちは強いようです。
口から食べ物を入れることが出来るようになり、少しずつ量が増えてきて朝昼晩の食事の量が多くなるにつれ、食べた後のきつさはさらに増していきました。
一時期は60分ほど少しも動けないほどでした。今はかなりこのきつさは軽くなり、ゆっくりと身体を動かせるようになりましたが、それでもまだまだ本当にキツイ。今でも時々へたり込みそうになることがあります。
これもやはり少しずつ少しずつ、時間の経過しかないのでしょう。
もちろん退院の時から比べれば格段に元気になってきました。でも日によって一日も時間によって体調が大きく変わります。
朝それなりに元気でも突然午後から動けなくなってしまったり、その逆もあります。
身体に力が入らない、動けない、下痢、腹痛、もちろん今でもとんでもなく苦しいです。でも出来ることを出来るだけやってさらに少しずつ身体の力をつけていくことだと思っています。
これからも経過をお知らせしていきます。
とりあえず思い出せるままに退院直後の様子を書いてみました。
でもこれは実際の感覚からすればほんの僅かしか書いていません。
少なくない人が恐らく弓田亨はもうだめだろうと思ったようです。言葉も力強く戻って腸ろうも取れて、ここまでこれたことは奇跡だという人もいます。
でももし私が手術の前10年以上かかさず「ルネサンスごはん」と「いりこサプリメント」を食べていなかったら、きっと私は持ちこたえられなかったと思います。
2つを食べ続けて身体に基本的な栄養素で活性化して力を蓄えた細胞があったから、3ヵ月も透明な点滴だけで命が繋げたのだと思い確信しています。
また、東大病院での的確な手術と共に昭和大学歯科病院の先生の正確な見立てがあってかなり早く「ルネサンスごはん」と「いりこサプリメント」を食べ始めることが出来たからだと思います。もちろん、ずっとそして今も下痢に悩まされています。
でも「ルネサンスごはん」と「いりこサプリメント」に含まれる基本的で豊かな栄養素がきっと弱っている腸に力を与えてくれると思います。
そして元気になりたい、また仕事をしたい、多くの人と心を通わせ続けたいという心のエネルギーがあったから、今こうして原稿を書く力が戻ってきたのだと思います。
本当に筆舌に尽くしがたい2年近くでした。
でも今、私はまだ変わりやすい体調に悩まされながらも、少しずつ元気な時間が伸びていくことを信じて頑張っていくしかありません。それが出来れば今よりもっと元気になれると思います。