取扱商品の100%が絶対的自信に裏打ちされたものではありませんが
ほとんどの商品がお客様の常識を根底から覆す真実のおいしさ、真実の技術を持ったものばかりです。
いくつかの弓田亨を評する言葉があります。「鬼才」「菓聖」「巨星」(『ブルータス』2006年5月15日刊)しかし彼の作るフランス菓子は、これらの言葉をも無意味にしてしまう、食べる人の五感を真底から揺さぶる正に異次元の味わいと言えます。彼のフランス菓子を食べて言葉に表せない深い感動に包まれた人はあまりにも多い。
さらに彼は自分のつくる味わいを分解し、理論づけ、そして誰でもがその味わいのほとんどを再現できるように技術を平明に組み立てることに成功した初めてのパティスィエです。複雑極まりない様々の要素が多様性を持って多重的に重なり、混在するフランス的な味わいの世界を、自分の意志に従えた最初で最後の人間です。
このことを的確に表したものに、フランス菓子教室に通われていたある方の次の言葉があります。
「イル・プルー・シュル・ラ・セーヌのお菓子は"おいしい"という次元を通り越して、衝撃と感動を与えてくれる味でした。食べ物がこんなにも人を感動させることができるのかと驚きました」
そして、私たちはパティスリーの前の歩道に「ここが日本で一番おいしいフランス菓子を作るイル・プルー・シュル・ラ・セーヌです」と堂々と看板を掲げて商売をしています。
誰がそんなことを決めるのかと言われるかもしれません。でもまずパティスィエが一番そのことを知っていますし、多くのお客様がフランスよりもおいしい、世界で一番おいしいと言われます。
私の生涯の友、フランス最後のガストロノミーの巨人、ドゥニ・リュッフェルも「亨のお菓子のおいしさにはパティスィエが嫉妬してしまうだろう」とさえ言いました。
私は31歳の時に、パリの「パティスリー・ミエ」(菓子店)で研修をしました。オーナーのジャン・ミエ氏は未だ値打ちのあった頃のMOF(フランス最高労働者賞)を持ち、フランス製菓協会の会長を長く務めた人物で、彼の周りには当時一世を風靡したパティスィエやキュイズィニエが数多く集まりました。ドゥニ・リュッフェル氏はジャン・ミエ氏のみならず、これらの卓越した職人たちの薫陶を受け、成長しました。
彼はお菓子のみならず料理も同時に学びました。
そして私はフランスでの二度目の研修の時に彼が正に巨人ともいえるパティスィエ・キュイズィニエに変貌したのを見ました。
彼の料理とお菓子はとにかく旨いのです。食べる人を虜にし感動を与えるのです。彼の料理、お菓子は何十年経ってもそのおいしさと光を失うことはありません。いつでも輝き続け、そしてとびきりにおいしいのです。
彼は決して時代の変遷に身を任せることはしません。先人から受け継いだ味わいを正確に受け継ぎ、そしてそれらに彼なりの解釈を与えて、お菓子とキュイズィンヌ・クラシック(=伝統的な料理)を作ります。
彼は決してマスコミに喜ばれよう、気に入られようとして料理やお菓子を作ることはありません。
というのが彼の考え方の中核なのです。
フランスは10年のミッテラン社会主義政権で大きく変質しました。
自分の料理、お菓子を食べる人のために自分の知力体力の全てを注いでお菓子や料理を作り上げるというフランス本来の伝統は失われ、ミシュランの星欲しさに奇をてらったアクロバット的な料理やお菓子をほとんどの職人が目指すようになったのです。
そして今、本来のフランス的な味わいを持った料理、お菓子を作れる職人はフランスにもほとんどいないと思います。
勿論日本で溢れるものも見せかけだけのフランス菓子料理がほとんどなのです。しかし彼はこの20年近く、毎年夏の技術講習会で、しかも素材が劣悪に変質してしまったこの日本で本来のフランス的な味わいを作り続けたのです。食べ物で本当の感動を知る機会もとうの昔に失ってしまった私たちにとって、正にそれは大きな驚きであり、私には奇跡とさえも思えたほどです。
彼の料理やお菓子は今でもフランスの中枢にあり、「本当のフランス」を知る人たちの支持を受けています。元フランス大統領のサルコジ氏、食通で知られるギャズ・ドゥ・フランス(フランスのガス会社)社長など、様々な人に料理を作り続けています。
また彼は食の本質――食は食べる人の心と身体の健康と喜びと幸せのため、人と人を結びつけるためにあること――を身をもって私に教えてくれました。この食の本質が私を導き、今の私を作り上げたと思っています。
ドゥニ・リュッフェルがいなければ、私はとても小さな人生を送っていただろうと思いますし、彼無くしては私の人生を語ることはできません。
パティスリーのお菓子の味わい、お菓子・料理作りの考え方、技術そして秀逸な素材、これらは全てドゥニ・リュッフェルと根源的つながりを持つのです。
1947年福島県会津若松市生まれ。
1970年、明治大学商学部卒業後、学生時代最後のアルバイトがお菓子屋という偶然とはずみによって菓子業界に入る。熊本市「反後屋」入店。その後、東京「ブールミッシュ」にて非力ながら工場長を務める。
1978年、パリ「パティスリー・ミエ」にて研修。がむしゃらに体力にまかせて仕事に没頭。翌年フランス菓子協会よりその研修内容に対し、銀メダルと賞状を授与される。
帰国後、東京「青山フランセ」「フレンチ・パウンド・ハウス」にて工場長を務める。
1983年、パリ「パティスリー・ミエ」にて再度研修。
1985年にフランスと日本の素材と技術の違いについて著した「Pâtisserie française そのimagination I.日本とフランスにおける素材と技術の違い」を自費出版。
翌年、自らの考える菓子を実際に食べてもらう場を作ろうと、東京・代々木上原に「ラ・パティスリー イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ」開店。仕事と酒に溺れた日々が始まる。
1989年に「嘘と迷信のないフランス菓子教室」開校。1994年ヨーロッパの秀逸な素材での菓子作りをすべく無謀なる輸入業務を開始。
1995年、資金も不十分な中で、「俺が終わりなら日本は終わりだ」の捨て台詞と共にパティスリーと教室を代官山に移転。フランス菓子協会よりフランス菓子の技術と素材の開拓に対し、金メダルと賞状を授与される。
現在、アマチュア向けお菓子教室、プロ向け講習会を開催する傍ら、全国にて技術指導を行う。そして日本の食材や料理からあまりにも栄養素がなくなっていることに危機感を抱き、「食の仁王」として、日本人の心と身体を健康にする「ごはんとおかずのルネサンスプロジェクト」を開始。
あまりの反応のなさに何度も挫折しそうになるも、喘ぎながら啓蒙運動を続ける。食の領域の偽りに性懲りもなく挑み続けている。さらに講演活動も行っている。